他者性と党派性

個々の音楽が持つ世界や、音楽家にとっての演奏の探究、音色に対する態度、聴覚についての哲学、おもしろみやたのしみの持ち味などは、それぞれ微妙に色合いが異なり、そのどれもが尊い。お互いが「他者」としての敬意と距離を保ちつつ、各自の在り方を探究し自分を開いてゆくこと、そんな場があることは、音楽の幸いと言えるものだろう。

ところが、広く見渡して音楽を捉えるときに、音楽の一面的な方法論や傾向をひとくくりに理解するという風潮がある。これは当然起こりうることで、そのこと自体は、さしあたっては善いことでも悪いことでもないだろう。誰しも好き嫌いはあるし、判断するためのなんらかの尺度はあって当然だ。
ただ、それが記号的な解釈やファッションの文脈として機能するとき、ひとびとの、個々の音に対する感受性は曇らされてしまうのではないだろうか。

たとえばそれは、「〜系」というような党派性としてあらわれる。これは自己の所属意識や優位性を求める心性であり、ある価値観に求心的に服従しつつ、その価値観からはずれるものを排除する態度であり、これは、立ち止まってみみを澄まさなければ聴こえてこない事柄を切り捨てる行為だ。

自己と他者の違いを尊ぶ感受性のゆたかさや、音に対して自分を開いてゆくよろこびやあやうさは、音楽家にだけ求められる態度ではない。音楽が指し示す希望のビジョンは、むしろ、あらゆる人々を解放するものでなくてはいけないと願う。そうしてはじめて、音楽は自由の契機となりうるはずだ。