鹿児島旅日記



雨に煙って桜島は見えない。いや、どのあたりに見えるものなのかも知らず、桜島のことなどすっかり忘れていたのである。鉄道マニアでもなければ、どちらかというとせっかちなぼくが、なぜだかのんびりとローカル線に乗ることが多い人生を送っている。旅とは不思議なものだ。


指宿枕崎線はひなびた風情のある(ありきたりな表現であるが、これも雨に煙る風景がそう感じさせたのかもしれない)路線だった。どこか、海へと迫り出した地形へと向かう、そうつまり、岬へと向かう、あの独特の匂いが立ちこめる車内だが、季節柄か、はたまた雨のせいか、やや沈んだトーンが潮風にさらされて、くすんだ色合いを見せている。買い物かごを持った初老の女性や、部活帰りの女学生などが、すこし哀しみをたたえた表情で眠ってい、海と空の境が消え去るあたりに、今日の目指す先があるのだった。



列車が進むにつれて、奄美と同じ南国の雰囲気も感じられるが、やはり本土の最南端、といった感じがする(奄美琉球の東北地方といった趣であったことを思い出す)。指宿は地熱で鹿児島市内より暖かいらしい。春の陽気で菜の花が満開であった。


名物の砂蒸し風呂に入る。砂浜に温泉が湧き出しているところがあって、その高温に熱せられた砂だからこそ効果があるのだという。なるほど、長く続く砂浜の、ごく限られた場所にだけ砂蒸しの浴場があり、波打ち際に湯気が吹き出しているのだった。


鹿児島の人たちは人懐っこい。開聞岳は見たか、池田湖には行ったか、と口々に聞かれ、雨でせっかくの景色を見せられないのは残念だといわんばかりに、晴れている時にまた来なさいと言ってくれる。こんなふうに地味にぼうっとしているだけでも楽しいのだが。nakaban画伯に描いてもらった、どこでもないどこかの風景に、ここでも出会う。

鹿児島市内に戻り、「しょうぶ学園」に見学に行く。ここは知的障碍者施設であるが、いわゆる健常者社会の中で自立していくための「訓練」を行うという発想ではなく、その垣根を越えたところで運営されている、風通しのよいところだ。実際に蕎麦屋、パン屋、ギャラリーなどが並び、そのどれもが生活と密接に関わりながらみんないきいきと仕事をしている。アウトサイダーアート、と一言でいうのは容易いが、手漉き紙のハガキにしても刺繍の施されたシャツにしても鮮やかでしなやかな迫力を持ったものばかりであった。 このあたりは桜島の火山灰が積もってできた台地のようなところで、うねうねと続く丘陵に住宅や商店が並ぶ住みやすそうな界隈であった。


沈壽官窯に見学に行く。十五代沈壽官さんは、豊臣秀吉朝鮮出兵の際に陶芸の技術を伝えるために渡薩した陶工の子孫で、いわゆる白薩摩の技法を伝える。民芸というよりも薩摩士族が使う上物の陶器をこしらえてきた家柄であり、威厳に満ちた門構えに技術を伝え育み守ってきた人の真を感じた。美山は陶芸の町らしい風情があり、広々とした敷地に登り釜が設えられていた。椎や楠の青黒い森は雨に濡れて、ぼくの心に深い安堵をもたらした。こういう里山の風景が、自分の肌に合うようだ。



夕暮れ時、天文館あたりをうろうろした。長く続くアーケードの繁華街は、大阪の千日前のようでもあり、新潟のようでもある。このアーケードはもちろん雪よけ雨よけではなく、火山灰が降るからなのだろう。市電が走っているのは堺のようでもある。どことなく昭和を感じさせる町並みだが、それにしても市電がある風景というのは趣があるものだ。




朝市の、活気があるというのとはすこし違う雰囲気が好きだ。まだ眠気の残った路地に店を広げている人々の、生活に退屈したような、それでいて所在ないたのしみもよく知っていそうな様子と、それとは裏腹に、目を見張るばかりの活きのいい魚、鮮やかな野菜の緑。見たこともない奇妙な形の果物が並ぶ風景も面白いが、珍しいものが何もなくたって構わない。旅先で人々の暮らしにふれることが楽しいのだ。


桜島がやっと見えた。桜島フェリーに乗ってみる。片道150円、24時間運行していて昼間は15分間隔。デッキの食堂のうどんがうまいらしい。香ばしく茶色に揚がった玉葱のかき揚げ、少し甘めの出汁。桜島に着いてすぐ、また折り返しの便に乗って戻る。こうやってただ列車や船に乗るためだけにうろうろしてみるのも旅ならではだ。


それにしても桜島の迫力に圧倒される。盛岡で見た岩手山も、弘前で見た岩木山も、ずいぶんと迫力あるものだったのだが、桜島は海を挟んだすぐそこにあるせいか、おそらく街からの距離も近く、いきなり目の前に煙を上げる火山がある風景は、きっと鹿児島の人々のアイデンティティにも大きく関わっているのだろう。