曖昧な浸透膜

ぼくは、いわゆる通常の、例えばヘ長調とかイオニアンモードとか、Gのブルース展開とか4分の3拍子とか、といった形で、自分の音楽を思い浮かべることができません。もちろん楽理的なものを否定するわけではありませんし、実際に好きで聴いている音楽の大半は、調性も旋律も、コード進行もリズムもある、普通の音楽です。ただ、おそらく、曲の構造を俯瞰するような聴き方に対して抵抗があるのでしょう。

ぼくは、「聴こえ」に興味があるのです。

朝、寝ぼけながら聴く雀の足音や、雨上がりの排水溝の水音、檜原村の夜の川音、竹富島の虫の声や波の音、どこか遠くの名付けようもないざわめき、光や風や温度や湿度、、、そういうものに耳を澄ますとき、それらの事象は、そのままで音楽なのではないかと思います。音に限らず、「聴く」という知覚の在り方によってしか感受し得ない世界があるからです。音は聴くもの、光は見るもの、風は感じるもの、なのではなく、音も光も風も「聴く」という関わり方ができるはずだと考えているのです。

ぼくは、「聴くこと」によって感じられる空気の質感や世界の肌理のようなものを捉えてみたいと思っています。音によって、なにかしらの思想や感情のようなものを表現したいと思ったことはありません。録音や楽曲製作をするときはもちろん、自分が楽器を演奏するときにも、いちばん興味があり、また気を使うのは、「聴こえ」の部分なのです。これは単にいい音を追求したいということではありませんし、積極的に能動的に音を操作することを否定するわけでもありません。

ぼくは効果音技師ではありませんが、特定の楽器奏者でもありません。
曖昧な領域の、曖昧な表現、乃至は体験。
そうした曖昧な浸透膜のようなものとして、自分の活動を考えています。